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直接性の補遺 ―― クエーカー教徒と貨幣の魔術

Posted: 2026.03.30 Category: ブログ

先日、ある本を読み進めていくうちに、ロウトリー家とネスレの関係をめぐる考察に時間を費やすことがありました。1800年代から続くイギリスの名門チョコレート会社が、100年以上の時を経て世界最大級の食品会社であるスイス企業に買収されたのは、歴史ある中堅企業が巨大企業に吸収されるといった、よくある出来事です。しかし、私が面白いと思ったのは別の点でした。私にとって興味深かったのは、チョコレートにまつわる会社の多くが、なぜクエーカー教徒たちによって今日まで経営されていたのかという点です。

クエーカー教徒とは、字義通り掘れば「キリスト教フレンド派」のことですが、ここには目をひくバックグラウンドがあります。質素で誠実、純粋で、権威性や暴力を否定するという彼らのキャラクターの発露は、何よりも信心的でありながら、教会的なもの(あるいは境界的なもの)へ向けた冷ややかさにありました。しかし私が不可思議に思うのは、なぜ当時のクエーカー教徒たちは、「商売」に向かったのか、ということです。当時、彼らはクエーカー教徒というだけで、「大学に入れない」、「公職につけない」「政治に関われない」という、つらい宿命を背負っていたことは事実です。しかし、誠実であれば組織にいられないということはないような気もするのですが、これはどういうことなのでしょうか。私が思うに、組織というのは、表面的な意味とはべつのところで妥協や調整といった「あいまいさの許容」によって成立します。そこが許容できなければ、収まりの良さに取っては、誠実さはあまり関係がないのです。過剰なまでに「透明かつ暴露的な誠実さ」を持つクエーカー教徒たちは、このしゅの「あいまいさ」の中に収まることができなかったのです。

なるほど、これらの条件が情景的に見えたところで、それでも誠実ゆえに落伍できない、あるいは社会との接点を見つけなければいけないとき、人はたしかに「商売をすること」しかできなくなってしまいます。ここでふたつ、疑問がわきます。なぜ、彼らは「チョコレート」に賭けたのかということ。そしてもうひとつは、これほどめんどくさい人たちが、なぜ商売の世界では多くの成功をおさめたのかということです。

クエーカー教徒にとって当時のチョコレートは、消去法がわの商材でした。彼らの精神には、飲酒を否定し、賭博性(騰落性)のある商売も否定し、贅沢品も扱えないという制約があったのです。また、クエーカー教徒の心の中にある、動かしがたいある種の「子供性」というものがあります。幼児性ではなく、透明さや、直接性としての「子供性」です。(実際、ジョージ・フォックスの発言集成などを読むと、彼の「あまりに透明な子供っぽさ」には、とても驚いてしまいます)。自分が扱うのは非贅沢に限り、飲酒や騰落、賭博は強く否定する。そして、本質的かつ反動的に、子供が好むものを探してしまう。これらの関係性の交錯点にあったチョコートという「近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石」(武田尚子)は、「大学に入れず」、「公職につけず」、「直接交換で生きるしかない」クエーカー教徒たちにとっては、まさに扱うに適した商材でした。

『貨幣は過去の一切の時間を、現在の経験世界の一個の物体に圧縮し縮減するという不可思議なはたらきを持つ』(ケインズ)

直接的な精神性の透明さと、暴露性の高い彼らが貨幣を扱うまで、商売というものは「駆け引き(嘘と妥協のあいまいさ)」が主流でしたが、クエーカー教徒は「相手によって値段を変えるのは不誠実である」として、誰に対しても同じ価格で売る「定価制」(fixed price)を導入しました。このことは、「直接性」が近代商業の最も強力な「システム」へと昇華された瞬間のひとつです。ロウトリーやキャドバリーの甘いチョコレートの裏側に、これほどまでにストイックで、かつ形而上学的な葛藤があったことは、自分には驚きを持って感じられるものです。そして驚きとともに、まじめさの度がすぎるため既存の社会にうまくはまらなかった人たちの「仕方なく商売をやるしかなかったのに、誠実すぎて信用が積み上がった」という事実は、そうなるしかないという現実の側面を見ている気がするのものです。このことは、彼らを成功に押し上げた要因の一つでした。誠実さというのは、効率がなくても、おそろしく時間がかかったとしても、商売というものの積み上げの部分に関する本質そのものなのです。

繰り返しますがクエーカー教徒は、あるしゅの「精神的な直接性」(ルソー)とともにありましたが、そのために、結果として社会とのあいだに媒介が生まれてしまいました。境界的なもの、ないし教会的なものへの冷ややかさです。直接性は常に補遺(デリダ)を呼び込みますが、ここで逆説が生まれます。直接的であり、暴露的であるほど。。つまり主体が透過されるほど、世界は単純にならず、むしろ境界(教会)への曖昧さを顕在させてしまうという逆説です。直接的であり、暴露的であり、主体透過的である。そういう気質を持つ人たちが境界(教会、あるいは協会)から追い出され、それでも社会そのものにもう一度触れるために、人類が生み出したもっとも媒介的なもののひとつである「貨幣」を扱うしかなかったこと。。つまり、クエーカー教徒たちが最終的に辿り着いたのが、人類最大の補遺(デリダ)である貨幣によって成立する場所(すなわち商売)だったことは、私にはほとんど奇妙ななにかに思えます。

奇妙といえば、クエーカーという語はコーヒーの世界ではまったく別の意味を持っていることにも触れなくてはならないかもしれません。。なぜなら、クエーカー(Quakers)というのは、コーヒーの世界では「邪魔者」そのものの意味だからです。焙煎豆のなかにあるその呼び名で呼ばれる未熟豆、糖分が不足しているためキャラメル化が起きないその薄い豆の色が、クエーカー教徒の象徴的な装束色を連想させたことから、ハンドピックで取り除くべき「不良豆」の俗称として定着してしまった事実には、私はこの世界におけるクエーカー的なものが排除され続けたことの象徴的な部分が、強烈にあらわれているようにも思えるわけです。

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